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発寒連合町内会の歴史・地区の概要

 発寒の地名は、アイヌ語の「ハチャム・ペッ」(サクラドリ(=ムクドリ)のいる・川)からきているといわれています。区域は、琴似発寒川を東端に、JR函館本線と地下鉄東西線(二十四軒手稲通)に囲まれた交通至便なエリアです。都市化の進展とともに人口が増え続け、現在では約1万7千世帯、3万1千人の方々が暮らしています。

 開拓の歴史は、安政4年(1854年)、北方防衛のため20名の幕府武士の入植から始まりました。明治9年(1876年)には、琴似屯田兵の枝村として南部藩などから240戸が入植し、酪農・畑作などの農村を形成してきました。札幌市と琴似町が合併した昭和30年頃から宅地化がすすみ、木工団地と鉄工団地が造成された昭和40年代には、市内有数の産業地域になります。

 こうした急速な都市化の進展に伴い、地域住民のあらゆる生活環境に課題が生じ始めました。その課題解決に向けて、昭和40年4月に設立したのが発寒連合町内会です。

 当初の管轄区域は、現在の発寒北地区及び手稲区に編入された新発寒を含む発寒全域で(昭和46年発寒北連合町内会と分離)、令和5年3月現在、24の単位町内会が連合町内会に参加しています。

 現在、発寒地区では、町内会をはじめ、地区社会福祉協議会、交通安全実践会、子ども会連絡会、青少年育成委員会、商店街振興組合等の地域団体が、清掃活動や緑化活動、集団資源回収、子どもや高齢者の見守り、防犯パトロール、交通安全推進運動などに精力的に取り組んでいます。令和7年(2025年)には創立60周年を迎える発寒連合町内会。引き続き、地域環境の美化・保全、安全安心な住みよいまちづくりを進めてまいります。

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